筑波大学に入学したものの半年で退学しハンガリーの国立大学へ飛び、日々医学を学んでいる友人がいる。 こういう人がいるという事実を見てると、改めて僕はぐうたらな学生であるなあと思うと同時に、学生とは何ぞやという命題が浮かんできた。 ので、まとめてみる。
最近私は学生の価値が何処にあるのかわからない。
他者からの評価はあくまで「一面」である。 家族からは怠惰なクソ兄貴だと卑下される私も、外に出てみるとオモシロ学生と良く評価されたりする。 評価者によって異なる評価をされるというのはつまり、他者には個人の全容を把握することはできないということだ。 そういう意味では、自身の全容を把握しうるのはやはり自分しかいないのだろう。 (他者の評価を周囲に振りかざすのは、また別の問題。)
例えば、対外的な学生というのは、評価をもらう機会に恵まれている。そうした学生を評価するために社会の評価基準も多様化し複雑化している(つまり不透明で不明瞭)。
しかし、しばし考えていただきたい。または胸に手を当てて我が身を省みて頂きたい。(ちなみに私は今胸に手を当てている。)
大学生として一番重きを置くべき活動とは如何なるものであろうか。
私は、「勉学」を推したい。学生活動ではなく。
サークル、学生団体、学生運動、体育会、その他諸々どの選択も尊重はしている。また尊敬できる人を多く知っている。 活動に於いて尊敬できる人ほど、その活動に深く関わっている人が多い。
そこで私は彼らに次の問いを投げかけたい。 「勉学よりもその選択に比重を割いてるのは何故か?」と。 この問いに対して「学問は嫌い。面倒。だるい。」などと答えるなら、私は彼らを否定する。 学生はなぜ学生なのか。 それは勉学をするためなのだ。 それを放棄する学生を私は嫌う。 それは私の思う学生の在り方とは違う。
そうした学生が増えているからこそ、就活に於いて企業は明確な評価基準を提示できない。多様化した学生の活動を尊重しなければならないからだ。
私は、「就活に正解がない」と言われる由縁はその対象が「人間」であり評価するのが「人間」だという所にあると考える。 人間という非合理的な行動を繰り返す動物を評価する基準を、人間に依るというのはカオスである。 (そういう意味では、恐らく日本に於いて大学受験の一般入試制度は生涯で唯一「得点」のみで人間を評価する機会であろう。)
従来求められてきた大学生の本来の在り方を(つまり「学問する大学生」を)踏襲する大学生が少ないからこそ、それを評価するGPA値はただの値でしかなくなり、むしろ多様化した選択を評価せざるを得ない社会になっている。 また何より厄介なのは、本来の「大学生」を選択した学生に対する評価が低くなっていることだ。 あたかもそれが陳腐であるかのように扱われるが、私はそうは思わない。
個人の選択を私は尊重するが、その選択理由や学問への姿勢を私は評価する。 その評価は、友人(だと僕が思っている人)にも容赦なく与える。だがそれは友人を否定することではない。なぜならそれはその友人の「一面」でしかないからである。
これを読んで憤慨するであろう人はつまり「学問してない大学生」であろう。
※補足として付け加えるなら、起業するような学生は別である。彼らが学生でいるのは大概、学問を選択しているからであるし、それはセルフブランディングの手法の一つである。 ビジネスセンス溢れる大学生は素直に尊敬する。